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子どもと現代美術との生活

(TAC会員)原田 丕

 メディアでは「空白の10年」「不在の15年」とも呼ばれる。およそ10年前と言えば、多摩.日市の森の奥深く、M少年はバーチャル・リアリティーを予言していた者として存在したのではないか。その根のなかに、この国に「文化を伝え、考える教育の不在」にあるのではないかと私は考える。
言うまでもなく、ヨーロッパの美術を訪ねると、小学生位の児童が、作品を前に床に座り込み、鑑賞指導を受けている姿をよく目にする。そこでは、その国の文化・歴史の中で生き、発言し、表現したアーティストの作品とその生き方を学ぶ。そのしくみを居・住と同様、文化は不可欠なものとして社会が認識し、位置づけている。戦後50年、西洋に追いついたように見えたものの、実態は何であったかは、明らかである。
 ドイツでは戦後の深い反省から、1つの方向に流されることのない、自分の目で考える批判力のある若者の育成に多様な表現と主張の現代美術の社会的役割を位置づけた。ドクメンタでは「経済原理のみに支配されない美術の批判力」と位置づけている。今日、子供たちが現代美術に触れることが何故必要かは、この1点に集約されると言っても過言ではなかろう。いかにして「子どもたちが直接、美術にふれる」しくみの形成が求められている。そのためには、市民・行政・アーティストが、一市民としてネットワークを形成して、動き出すことが必要である。
 その意味で今回の「野外アートinはむら」展が、羽村市・市民グループ「アートYou遊」との共同作業によるアーティストファイルの発展として、地域の関係機関の協力と共に実現できたことの意義は大きい。

 

<子どもとアーティストとの対話>

羽村市松林小学校の実践報告

「野外アートinはむら」展の鑑賞(総合的な時間 4時間扱い)

日時:     2001年5月2日AM9:00~11:30

参加児童  5年生、6年生 計103人

引率者    5名

授業内容

  1.立体作品の鑑賞(素材と表現)

  2.作品スケッチ

 学校を9:00に出発、歩いて40分の羽村市郷土博物館に着く。始めに5年生から会場を見通せる博物館内の庭のテラスから、主に素材のちがいと表現に着目した鑑賞指導を行う。その後、担任の先生に引率され(先生方には事前に実踏を体験してもらっている)、段上の林の中の作品から巡回して鑑賞した。その後、子どもたちは自分の印象の強い作品をスケッチし、鑑賞した感想を書くという授業である。
 この授業は、来年から本格的に実施される「総合的な学習」の時間として設定された。これは産業人などの地域人材と子どもたちとの交流、授業などを通してその生き方を学ぶものである。その意味で、アーティストや作品との交流は、多様な価値観や生き方を学ぶ上で重要なことと考えるからである。
 子どもたちは、思い思いの作品の前に座り、熱心にスケッチ(F4画用紙、鉛筆)に取り組んだ。実は、100名の子どもたちが、互いの開放感のあるスペースで、一度に作品鑑賞することへの配慮もあり、スケッチすることを考え出したのである。
 5月2日。新緑の中、多様な素材と表現の作品群を目の前に、子どもたちと耳をすますと、小鳥のさえずりと風の音だけが会場をつつむ。子どもたちを前に、静かに作品お話ができた体験は、やはり目の前の作品の物質性、リアリティーの力ではなかっただろうか。これは決して、バーチャルな媒体では体験できないであろう。子どもが作品に触れることや物質性を通して、なぜアーティストがその素材を選択し表現したかを味わい、考えて欲しかったのである。
 子どもたちには、作品を見、その特性を感じ、そっと触れ、作品の肌ざわりを確かめることを勧めた。なぜなら会場のいたる所に「作品にふれないで下さい」の注意書きがあるからである。子どもたちは、なぜそれが必要なのか、理解してくれたようである。実に熱心に作品に向き合っていた。いかに作品と対話したか、スケッチを見ていただければ納得していただけるのではないか。

<内在し、想像するスケッチ>

 今回、特記すべきことは、「子どもはイメージでスケッチする」ということである。2、3例をあげると、岩上氏の目の作品は、実際には一本の木に一つしかないのに、二つ描かれ、島田氏の精霊(作品)の背景に、無いはずの岩上氏の目のある木を描き、内田氏の傘の下にも無いはずの精霊が、描き込まれている。城下氏の椅子にのせられたビニール管の作品は、椅子が省かれ、ビニール管のみが林の木からつるされている。
 一般的にスケッチは対象とその回りを写実的に描くことにとどまることが多い。そのようなものができると思っていた。しかし子どもたちは、直感で作品と対話して内面化し、イメージをふくらませてスケッチしていることに私は驚いた。このイメージの飛躍は、無機的な室内空間ではなく、緑豊かな有機的な空間とかかわりがあるだろう。ともすれば、日本では教育を「箱」の中に閉じ込めようとする。しかし、今回の野外展鑑賞の試みは「外に出る」ことの意味を実証している。児童は片道50分を歩いて作品に出あった。であればこそ、池ヶ谷氏の作品の赤い鉄さびを美しいと感じ「飛行船みたいだ!まるで鉄が呼吸しているみたいだ!」と対話したのである。
 5月11日の朝日新聞の夕刊に出合いサイトを例に「………バーチャル・リアリティーはその「現実」としての実質を増しながらひろがっていくのである。」と結んだ記事を載せている。野外展は金属に限っても、素材・表現・技法などはバーチャルでは伝えられない。子どもたちが「見る」ことは、このことにつきるのではないか。
 市民とのネットワークで実現できた今回の企画の意義は深い。そして、このことがまだ小さい点にすぎないことも現実である。今回の野外展の実現には継続的な市民との対話.交流により、個々のアーティストが、その地域で小さな点をしるし、それが線、ネットワークにつながり、市民社会に美術が根づき、生き方を共に考える場として社会に機能することが、時間がかかってもこの国には重要ではなかろうか。

 

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